本作品はいまも新潮文庫の100冊にのこる数冊の海外文学の中の一冊。たぶん30年以上前からずっとシリーズを飾っている。ちょっと前に『ヘミングウェイで学ぶ英文法』という本が売れてると聞いて、まだ文学への憧れ、原文を読むことへの憧れってあるんだなっと思った。
翻訳ものは光文社さんにおせわになることも多いわたしだが、この作品だけは福田恒存氏の訳が好きだ。
作品は神話イメージともいわれるそうだが、どこかおとぎ話のような雰囲気がある。最初と最後にルソーの楽園が思い浮かぶ。
今回読みかえしておもったのは色彩がとても豊かだなということ。
白い砂浜、緑の海岸線、薄紫の丘、赤く漂う浮遊物、紫色のかつおのえぼし、海は黄色い毛布…
そして燐光、閃光、曙光、眼光、異様な光線、光った金色の胴体…など、光の表現も多彩。
そういえばミロの最初の絵を買ったのも彼だったという。彼は見ることが好きな作家だったのかもしれない。
ヘミングウェイは、男女平等の現代なら一発アウトぐらいにマッチョ(男性優位主義)な人物だったらしい。巻末の福田恒存氏の解説を読んでいるとこの作家はわたしが思うよりずっと肉体派、武闘派なイメージなのかもしれない。それでもハードボイルドといわれるその文体は、懐深い人間味、温かみがにじんでいる。
また彼は緊張感を保つために今でいうスタンディングデスクで立って執筆をしていたともいわれている。
「獲得と喪失」がテーマといわれることの多い作品だがはたしてほんとうにそうだろうか。
文中のセリフ、
「けれど人間は負けるようには造られてはいないんだ」
「そりゃ、人間はころされるかもしれない。けれど負けはしないんだぞ」
わたし的にはこのあたりのセリフがこの作品のテーマのように思える。
結果はおろか自身の生命さえかえりみるに値しない。大切なのはそれを超えた思い、魂、自己完結。そんな人間にとって獲得も喪失も二の次で取るに足らないものにちがいない。
落馬の負傷から思いのままにならないリハビリのなかで彼にとっては肉体は取るに足らないものだったのかもしれない。戦争に参加した経験もある彼は、あっけなく消えていく幾多の命も見てきたのだろう。
けれど作家のことばが自身のいのちを支えられないというのは、ことばといのちのかかわりを考える当サイトとしても由々しき問題。
こんな話がある。天国ではとても長い箸しか使えず、ごはんを食べるときはだれかに食べさせるか、だれかに食べさせてもらうしかないという。ひょっとしたらことばというものもそういうものなのかもしれない。ことばは他人にあたえられてこそその真価を発揮する。
みずからに散弾銃の照準を定めながら彼は生きながらえる方策を巨大カジキマグロと格闘をはじめた老人サンチェゴのように模索しなかったのだろうか。「おれにだっていろいろ手はあるさ」これが作家のはじめのことばにならなかったのは残念だなと思う。
簡潔で読みやすいとされる作品だが、挫折ポイントとしては漁の道具などの記述が煩雑で漢字も多く読むのがすこし面倒に感じることもあるのかなっと思った。そういう意味ではルビは間をおいてではなく常時ふってほしいなと思うのは漢字が苦手なわたしだけだろうか。『少年H』という作品があそこまで売れたのは作品のすばらしさもさることながら、あの本が総ルビであることと無関係ではないと思うのだが。
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