聖書には、「はじめにことばありき」と書かれています。
私はキリスト者ではないのですが、このことばはその美しさとあいまって幼いころよりこころの中にありました。
やがて私も人生や社会について考えはじめるころになるとある疑問が浮かぶようになります。はじめにことばがあるのになぜひとは遺書を書くのだろうか。それは最後のことばですよね。だれにとっても等しくはじめになれることばというものはないのだろうか。そして長い読書生活がはじまったのです。
ただ本を読みすすめていきますと、ひとの悩みはさまざまだということもわかってきます。倫理的に完ぺきをめざすひとにとっては宗教も意味をもつでしょう。でもお金の欲しいひとにはお金を稼ぐ方法が、恋人の欲しいひとには恋人と出会える方法が、健康になりたいひとには病気を治す方法が光明としてうつるということがわかってきます。
そして希望はすべてがかなえられるわけではなく、時としてあきらめ、重たい手足を引きずるようにまた歩きはじめなければならないことがあるということも。
ところで、ときどきひとが口にする「孤独」ということばはそもそも矛盾しています。ひとが「孤独」と口にできるのはそのことばを作り受けついできた膨大なひとたちがいるからなのです。そのことばを口にするときひとはその膨大な人たちとすでにつながっているのです。地球にいるかぎり重力の影響をうけずにいられないように、ことばとともにいるかぎりひとは「孤独」にはなれません。
いまだに究極のはじめのことばがなんなのかはわかりません。空海のような天才にたよってそれは「色即是空」だといってしまうのもいいでしょう。ただ暗がりの中で光をもとめてさまよった経験から私はそのことばはこのあたりにあるのではないのかと思っています。
「たのしいよ、いっしょにやろう」