なにかを書きはじめようとするときいつも思い出すのはミラーのことば。
“ぼくは諸君のために歌おうとしている。すこしは調子がはずれるかもしれないが、とにかく歌うつもりだ。諸君が泣きごとを言っているひまにぼくは歌う。諸君のきたならしい死骸の上で踊ってやる。”
劣情にまかせて書き散らし、推敲のあとも見られず、小説とも体験談ともつかぬ構造は破綻しつづけて、全編にわたってバラまかれた性の描写とそれをとりまく汚辱に満ちた舞台。
それほど美しいとも思わないミラーの作品がなぜこれほど忘れがたいものになっているのだろう。
たぶん彼の文学観、芸術観が私のあこがれるブンガクに近いからなのだと思う。
「汝自身に帰れ」
「自殺も殺人も不可能なとき人は道化師となる」
「生命は文学においては夢と象徴を駆使することによってのみ得られる」
「文学は世界全体にかかわり、人間の生命そのものにかかわることなのである」
少なくとも生きることと書くことが同化してことばを吐き出さずにはいられないせっぱつまった人間だけがもつ熱量がこの作品には満ちている。
愛人だったアナイス・ニンも序文で書いているように「根源的な現実へのわれわれの嗜欲(しよく)をとり戻す」それが可能なのかもと思わせる。
たとえそれが憎悪や呪詛のことばだったとしても。
若さというのは横溢(おういつ)するエネルギーがしばしば既存の現実という受け皿からあふれ出て、現実そのものを変形させることがある。
それが若者文化になって一風変わったことば使いや奇抜なファッションになったりするのだろう。
そう考えればこの作品はあふれ出る熱量でブンガクの構造自体を溶かしてしまった、そんなふうにも読むことができる。
哲学ならだれでもいつでも正しい手順さえ踏めば絶対不変の真理にたどり着けるのかもしれない。
けれどブンガクでは無理だ。
その人がある時にその場所でしか出会えないことばというものがある。
それは奇跡にちがいなく、一瞬の閃光(せんこう)のように美しく、だからたまらなく恋しいのだ。
今回ミラーを読み返してあらためてそう思った。
私がいつまでこのブログを書くのかはさだかではないが、うまく書こうとしすぎて手が止まったり、怠惰におちいり書くことは無意味だと思ったり、無知をさらすことがこわくなったりしたときはいつでも冒頭のミラーのことばにもどろうじゃないか。
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